『ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間』は今月で20周年を迎えます。私たちは、その記憶を辿りながら、数十年経った今でもなお、どれほど多くのシーンが鮮やかに記憶に残るのかを改めて思い知らされます。しかし、ピーター・ジャクソン監督の三部作の中でも、最も心に深く刻まれ、悲劇的なシーンの一つは、今もなお際立った存在感を放っています。それは、フロドとガラドリエルの鏡との邂逅です。
旅の仲間がロスローリエンにてガラドリエルとケレボルンの保護のもと、安全な港へと辿り着いた時点では、彼らは肉体的にも精神的にも疲弊しきっていた。モリアから脱出したばかりで、要であるガンダルフを失った悲しみに暮れる旅の仲間たちは、滅びの山へ辿り着き、旅の目的を達成することはもちろん、一団として共に留まることさえ絶望的に思えた。傷を癒しながら憂鬱な思いに沈む夜を過ごす旅の仲間たちの中で、フロドは孤独に苛まれる。そんな時、彼はガラドリエル夫人と偶然出会い、彼女の予知の魔法の泉を覗き込む機会を得る。旅の仲間、特に指輪の持ち主が弱体化した場合、世界はどうなるのかを予見するためだった。
ガラドリエルの鏡のシーンがこれほどまでに衝撃的なのは、一つの指輪の誘惑――ガラドリエルの望みを予見したフロドが、もし彼の申し出に屈し、指輪の重荷を引き受けてしまったら、直面しなければならない恐怖――を描いているからではない。力の指輪を持つことに伴う悲劇的な孤独を、このシーンが増幅させているからだ。フロドがこれまで出会った人物の中で、指輪の持ち主であることの孤独を理解できる者はほとんどいない。ガンダルフでさえもだ。しかし、ネンヤの守護者であるガラドリエルは理解できる。孤独への恐怖、そしてモルドールで運命の指輪を運ぶという、意志を削ぎ落とすような過程を、ただ乗り越えなければならないという思いこそが、フロドとガラドリエルを、共に過ごすこの短い時間に、それぞれの試練に備えさせる原動力なのだ。もちろん、ボロミアが指輪をゴンドールに持っていこうとする誘惑に負けそうになることや、ホビット庄の惨劇による破滅が約束されていることなど、恐ろしい警告もある。この出来事は、ジャクソンの三部作ではここでちらりと登場しただけで、原作では触れられていない。しかし、この瞬間にフロドとガラドリエルを駆り立てているのは、憂鬱で悲しげな孤独である。

フロドがガラドリエルの鏡で最初に見たビジョンは、彼が諦めた場合のホビット庄の悲惨な運命ではなく、友人たちの顔と、彼らの打ちひしがれるほどの失望だった。ガラドリエルが闇の女王となった場合、彼女が望むのは権力以上のものだ。たとえそれが恐ろしいものであっても、その力で魅了できる人々から愛されることを。二人の指輪持ちは、任務を一人でこなさなくて済むチャンスに惹かれる。ガラドリエルは若いホビットに、旅の仲間を離れなければ探求を成し遂げられないと促す。しかし、最終的にガラドリエルが口出しすることはない。サムは友への愛ゆえに、旅に無理やり同行することになるからだ。しかし、それは後の話だ。
ロースリアンの影に潜むこの瞬間、フロドは、自分にしかできない任務に立ち向かうために、仲間を求める気持ちを脇に置かなければならないという考えに向き合い、覚悟を決めた。これほどまでに強力なアーティファクトを携える代償が孤独だとすれば、それは払わなければならない代償だ。ガラドリエルは、崇拝されることへの憧れを脇に置いたことで、ありのままの自分を保ち、不死の地へと旅立ち、民と共に過ごすことができた。フロドがそれを受け入れたことで、旅の仲間が自らの手で滅びる前に、アモン・ヘンの戦いから無事に脱出できたのだ…とはいえ、真の孤独ではなく、常に忠実なサムが同行していた。
しかし、ガラドリエルがフロドに教えた教訓にサムが加えたひねりこそが、そもそも『旅の仲間』を美しく真摯な冒険映画にしている一因となっている。映画の中でフロドが直面する最大の試練は、一つの指輪の重荷を背負えるのは自分しかいないこと、そしてその重荷を背負うために感じる孤独こそが悲劇であることを受け入れることだ。しかし同時に、サムが親友を追ってアンドゥインの海に足を踏み入れるまで、フロドは、友情や愛情といったものの絆は、結局のところ、そのような悲劇を放置するにはあまりにも強すぎることにも気づかない。たとえフロドが壮大な冒険に一人で挑む覚悟ができていたとしても、彼には、定められた憂鬱と戦うために、この悲しく孤独な任務の重荷を喜んで分かち合ってくれる友がいるのだ。
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