今年は、画期的なSF・ファンタジー作家、アーシュラ・K・ル=グウィンの作品にとって、大きな節目の年です。『アトゥアンの墓』と『天空の旋盤』の出版50周年、『もう一つの風』と『ゲド戦記』の出版20周年です。本日は、『ゲド戦記』収録の短編「高き湿地帯にて」(短編集『拾得物と失物』収録)から抜粋をご紹介します。2018年に逝去されたル=グウィンのファンの方にも、初めて読む方にも、きっとご満足いただけるはずです。今こそ、彼女の作品を読み、その魅力を堪能し始める絶好の機会です。
追加特典として、2018 年に Saga からリリースされた The Books of Earthsea のイラスト入り巻に初めて掲載された Charles Vess による美しいアートワークも入手できます。

ハイマーシュにて
セメル島は、ペルニッシュ海を挟んでハブノールの北西、エンラデス諸島の南西に位置しています。アースシー諸島の大きな島の一つであるにもかかわらず、セメル島にまつわる逸話は多くありません。エンラデス諸島には輝かしい歴史があり、ハブノール諸島には富があり、パルン諸島には悪評がありますが、セメル島には牛と羊、森と小さな町、そしてそのすべてを見下ろすアンダンデンと呼ばれる巨大な静かな火山があるだけです。
アンダンデンの南には、火山が最後に噴火した際に灰が30メートルほどの深さまで降り積もった土地が広がっている。河川や小川は高原を海へと流れ込み、曲がりくねって水たまりを作り、広がり、曲がりくねって沼地を形成している。広大な荒涼とした水原で、遠くの地平線が見える。木々は少なく、人影もまばらだ。灰土からは豊かで鮮やかな草が育ち、人々は牛を飼育し、人口の多い南海岸向けに肥育している。牛たちは平原を何マイルも放牧され、川が柵の役割を果たしている。
アンダンデンは山のように天気を作り、周囲に雲を集める。高地の湿地帯では、夏は短く、冬は長い。
ある冬の日のまだ暗い頃、一人の旅人が、葦の間の牛の道のような、どちらにもあまり期待できない二つの道が風に吹かれて交差する場所に立って、進むべき道の標識を探していた。
山の最後の斜面を下りながら、湿地帯のあちこちに家々が立ち並び、すぐ近くに村があるのが見えた。村へ向かっていると思っていたのだが、どこかで道を間違えてしまった。背の高い葦が道のすぐ脇に生い茂り、光が差し込んでいても見えない。足元のどこかで水が静かに音を立てていた。アンダンデンの荒れた黒い溶岩道を歩き回ったせいで、靴はすっかりすり減っていた。靴底はすり減っていて、湿地帯の凍った小道の湿った水で足が痛んだ。
あたりは急速に暗くなっていった。南から霞が立ち込め、空を覆い隠していた。巨大な薄暗い山の稜線の上空でのみ、星がはっきりと輝いていた。葦の間を風がかすかに、かすかに、そして陰鬱に吹き抜けていた。
旅人は交差点に立って、葦に向かって口笛を吹き返した。
暗闇の中で、線路の1つに何かが大きくて黒いものが動いた。
「そこにいるのか、愛しい人よ」と旅人は言った。彼は古語、創造の言語で話した。「さあ、ウラ、来い」と彼が言うと、雌牛は彼の方へ、名前の方へ、一歩二歩と近づいてきた。彼は彼女に会いに歩いて行った。彼はその大きな頭を、視覚というよりも触覚で見分けた。目の間の絹のような垂れ下がった部分を撫で、額の角の根元を掻いた。「美しい、美しい」と彼は、彼女の草の香りのする息を吸い込み、彼女の大きな温もりに寄りかかりながら言った。「導いてくれるか、愛しいウラ? 私を行きたい場所へ導いてくれるか?」
彼は農場の雌牛に出会えて幸運だった。放浪する牛ではなく、沼地の奥深くへと彼を導くだけの雌牛だった。彼のウラは柵を飛び越えるのが得意だったが、しばらくさまよううちに牛舎と、今でも時々ミルクを盗み食いする母親のことを懐かしく思い出すようになった。そして今、彼女は喜んで旅人を家に連れて帰った。彼女は小道の一つをゆっくりと、しかし目的意識を持って歩き、彼も彼女について行き、道が十分に広い時は彼女の腰に手を置いた。彼女が膝の深さの小川を渡る時、彼は彼女の尻尾をつかんだ。彼女は低い泥だらけの土手をよじ登り、尻尾を振り払ったが、彼がさらにぎこちなく彼女の後をよじ登るのを待った。それから彼女はゆっくりとゆっくりと歩き続けた。彼は彼女の脇腹に体を押し付け、しがみついた。小川で骨まで冷え、震えていたからだ。
「モー」とガイドが優しく言うと、彼は左側に小さな四角い黄色い光がぼんやりと見えるのを見た。
「ありがとう」と彼は言い、雌牛が母親に挨拶しに行くように門を開けた。その間、彼は暗い家の庭をよろめきながらドアまで歩いた。
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ドアの前にはベリーがいるはずだったが、なぜノックしたのかは彼女には分からなかった。「入って、この馬鹿!」と彼女が言うと、彼は再びノックした。彼女は繕い物を置いてドアに向かった。「もう酔っ払ってるの?」と言いながら、彼を見つけた。
最初に彼女が思い浮かべたのは、王様、領主、歌のマハリオン、背が高く、背筋が伸び、美しい人だった。次に思い浮かんだのは、汚れた服を着て、震える腕で自分を抱きしめている、物乞い、迷える男だった。
彼は言った。「道に迷ってしまった。村に来たのだろうか?」彼の声は嗄れて耳障りで、乞食の声のようだったが、乞食のアクセントではなかった。
「半マイル先だ」とギフトは言った。
「宿はありますか?」
「南に10~12マイルほど行ったところにあるオラビーに着くまでは無理よ」彼女はほんの少し考えただけで言った。「今夜泊まる部屋が必要なら、私のところに泊まってるわ。村に行くなら、サンが泊まってるかもしれないわ」
「よろしければここに残ります」と彼は歯をカチカチ鳴らしながら、立ち上がるためにドア枠につかまりながら、王子様のような口調で言った。
「靴を脱いで」と彼女は言った。「びしょ濡れよ。さあ、入って。」彼女は脇に立ち、「火のそばへ」と言い、ブレンの長椅子に彼を暖炉のそばに座らせた。「火を少しかき混ぜて」と彼女は言った。「スープを少しいかが?まだ熱いわよ。」
「ありがとうございます、奥様」彼は火のそばにしゃがみ込みながら呟いた。奥様がスープの入った椀を持ってきた。まるで熱いスープに長い間慣れていないかのように、彼は熱心に、しかし警戒しながらそれを飲んだ。
「山を越えて来たの?」
彼はうなずいた。
「何のために?」
「ここに来るために」と彼は言った。震えは徐々に収まってきた。裸足は痛々しいほどで、傷だらけで腫れ上がり、びしょ濡れだった。彼女はすぐに火に当ててあげてと言いたかったが、僭越なのは嫌だった。彼がどんな人間であろうと、自ら望んで物乞いになったわけではない。
「ハイ・マーシュに来る人はあまりいないわ」と彼女は言った。「行商人とか。でも冬はね」
彼がスープを飲み終えると、彼女はボウルを受け取った。彼女は暖炉の右、オイルランプの脇の椅子に腰掛け、自分の席に座り、繕い物に取り掛かった。「温まってからベッドを見せてあげるわ」と彼女は言った。「あの部屋には火がないのよ。山の上で天気は悪かった?雪が降ったって言ってるわよ」
「少し風が吹いているようだ」と彼は言った。ランプと火の光の中で、彼女は彼をよく見ることができた。彼は若い男ではなく、痩せていて、彼女が思っていたほど背が高くなかった。顔は立派だったが、どこかおかしい、どこか不自然だった。彼は破滅したように見える、破滅した男だ、と彼女は思った。
「なぜマーシュに来たの?」と彼女は尋ねた。彼を引き取った以上、尋ねる権利はあったが、その質問を突きつけるのは気が引けた。
「ここの牛に疫病があるって聞いたんだ」寒さで凍えきれなくなった今、彼の声は美しく響いていた。英雄や竜王の役を演じる語り部のように。もしかしたら語り手か歌手だったのかもしれない。だが、違う。疫病だ、と彼は言った。
"がある。"
「獣たちを助けることができるかもしれない。」
「あなたは治療師ですか?」
彼はうなずいた。
「それなら大歓迎だよ。牛の間で疫病がひどいんだ。しかも悪化しているしね。」
彼は何も言わなかった。彼女は彼の中に温もりが入り込み、彼を解き放っていくのがわかった。
「足を火にくべなさい」と彼女は唐突に言った。「夫の古い靴があるの」そう言うのには多少の苦労があったが、言い終えた途端、解放されたような、束縛から解き放たれたような気がした。そもそも、ブレンの靴を何のために取っておいたのだろう?ベリーには小さすぎたし、彼女には大きすぎた。ブレンの服はあげてしまったのに、靴は取っておいた。何のためになのかは分からなかった。どうやらこの男のためらしい。待つことができれば、物事は巡り巡って来るものだ、と彼女は思った。「用意してあげるわ」と彼女は言った。「あなたのはもうダメよ」
彼は彼女をちらりと見た。彼の黒い目は大きく、深く、馬の目のように濁っていて、表情を読み取ることができなかった。
「彼は死んだのよ」と彼女は言った。「二年も前に。湿地熱病よ。ここは水に気をつけなきゃいけないの。私は兄と暮らしているの。兄は村の酒場にいるの。私たちは酪農場を経営しているの。私はチーズを作っているの。牛たちは元気よ」そして彼女は災いを避けるように合図をした。「牛は家の中に閉じ込めておくの。放牧地では疫病がひどいの。この寒さが治まってくれるかもしれないわ」
「それを使って病気になった獣を殺す方が確実だ」男は言った。少し眠そうな声だった。
「私の名前はギフトよ」と彼女は言った。「弟の名前はベリーよ」
「ガリー」と彼は少し間を置いてから名乗った。彼女はそれが彼が勝手に作った名前だと思った。彼には似合わなかった。彼の何もかもが、まとまりがなく、まとまりがなかった。それでも彼女は彼を不信感は抱かなかった。彼といると気楽だった。彼女に悪意はなかった。動物たちについて話す彼の言葉遣いから、彼には優しさがあると思った。きっと彼なら動物たちとうまく付き合えるだろう、と彼女は思った。彼自身も動物のようだった。沈黙し、傷ついた生き物で、保護を必要としているのに、それを求められない存在だった。
「おいで」と彼女は言った。「そこで眠ってしまう前に」。彼は従順にベリーの部屋へついて行った。そこは家の隅に作られた物置に過ぎなかった。彼女の部屋は煙突の裏にあった。しばらくするとベリーが酔っ払って帰ってくるので、彼女は煙突の隅に寝床を敷いてあげる。旅人に一晩、良い寝床を与えてあげよう。もしかしたら、帰る時に銅貨を一枚か二枚置いて行ってくれるかもしれない。最近、彼女の家では銅貨がひどく不足していたのだ。
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彼はいつものように、大邸宅の自分の部屋で目を覚ました。なぜ天井が低く、空気は爽やかなのに酸っぱい匂いがし、外で牛が鳴いているのか、彼には理解できなかった。じっと横たわり、この別の場所、この別の男のところに戻らなければならなかった。その男の仮名は、昨夜雌牛か女に言ったのに、思い出せなかった。彼は自分の本当の名前を知っていたが、ここでは、ここがどこであろうと、どこであれ、役に立たなかった。黒い道と険しい斜面、そして川が切り開かれ、水に輝く広大な緑の大地が彼の前に広がっていた。冷たい風が吹いていた。葦が口笛を吹き、若い雌牛が彼を小川へと導き、エメルがドアを開けた。彼は彼女を見た瞬間に彼女の名前を知っていた。しかし、彼は別の名前を使わなければならなかった。彼女を名前で呼んではいけない。彼女に呼ぶように言った名前を覚えていなければならない。彼はイリオスであってはならない。たとえ彼がイリオスであったとしても。もしかしたら、そのうち彼は別の人間になるかもしれない。いや、それは間違いだった。きっとこの男に違いない。この男の脚は痛く、足首も痛かった。しかし、それは良いベッドだった。羽毛布団で、暖かく、まだ出る必要はなかった。彼はしばらくうとうとと眠り、イリオスから遠ざかっていった。
ようやく立ち上がった彼は、自分がいくつなのかと自問し、70歳かどうか確かめようと自分の手と腕を見た。見た目はまだ40歳だったが、体感は70歳で、顔をしかめながら、まるで70歳のような動きをしていた。何日も旅をしてきたせいで、服は汚れていた。椅子の下には、すり減っているが丈夫な靴と、それに合う毛糸のストッキングが一足置いてあった。彼はそのストッキングを傷んだ足に履き、足を引きずりながら台所へ入った。エマーは大きな流し台の前に立ち、布巾の中で何か重いものを濾していた。
「これらと靴をありがとう」と彼は言い、贈り物に感謝しながら、彼女の愛称を覚えていたが、「奥様」とだけ言った。
「どういたしまして」と彼女は言うと、それが何であれ大きな陶器のボウルに持ち上げ、エプロンで手を拭った。彼は女性について何も知らなかった。10歳の頃から、女性のいる場所に住んだことがなかった。彼は女性たちを、ずっと昔、あの大きな別の台所で彼に道を空けるように叫んだ女性たちを、恐れていた。しかし、アースシーを旅するようになってから、彼は女性たちと出会い、動物のように一緒にいて楽なことが分かった。彼女たちは、彼が驚かせない限り、彼にあまり注意を払わず、自分の仕事をこなしていた。彼はそうしないように努めた。彼らを驚かせたいとは思わなかったし、驚かせる理由もなかった。彼女たちは人間ではなかった。
「焼きたてのカードはいかが? 朝食にぴったりよ」彼女は彼をじっと見つめていたが、長くは見つめず、目を合わせようともしなかった。動物のように、猫のように、彼女は彼を値踏みしながらも、挑発するようなことはしなかった。大きな灰色の猫が、暖炉の上に四本足で座り、炭火をじっと見つめていた。イリオスは彼女から渡されたボウルとスプーンを受け取り、長椅子に腰を下ろした。猫は彼のそばに飛び上がり、喉を鳴らした。
「見てごらん」と女性は言った。「彼は大抵の人とは仲良くないのよ」
「それはカードです。」
「彼は治療薬を知っているかもしれない。」
ここは女と猫がいて平和だった。彼は良い家に来たのだ。
「外は寒いわね」と彼女は言った。「今朝は水槽に氷が張っているわ。今日はもう行くの?」
沈黙が訪れた。彼は言葉で答えなければならないことを忘れていた。「もし許されるなら、ここに残りたい」と彼は言った。「ここに残りたい」
彼は彼女が微笑んでいるのに気づいたが、彼女も躊躇しており、しばらくしてこう言った。「ええ、どういたしまして。でもお願いがあるんですが、少しお金を払ってもらえませんか?」
「ああ、そうだ」と彼は混乱しながら答え、立ち上がり、足を引きずりながら寝室へポーチを取りに戻った。そして彼女に一枚の金貨、エンラディアの小さなクラウンピースを持ってきた。
「食べ物と火だけでも、泥炭は今すごく高いんですよ」と彼女は言いながら、彼が差し出したものを見ました。
「ああ、先生」と彼女は言った。そして彼は自分が悪いことをしたと悟った。
「村でそれを変えられる人は誰もいないのよ」と彼女は言った。彼女は少しの間彼の顔を見上げた。「村全体が力を合わせても、それは変えられないわ!」と彼女は言って笑った。それで、それでいいのだ。しかし彼の頭の中では「変える」という言葉が鳴り響いていた。
「変わっていないよ」と彼は言ったが、彼女がそう言っていないことは分かっていた。「ごめんなさい」と彼は言った。「一ヶ月、いや、冬を越したら、それで使い果たしてしまうんじゃないか?獣たちと働く間、泊まる場所が必要なんだ」
「しまって」と彼女はまた笑い、手をバタバタさせながら言った。「牛を治せたら、牧場主があなたに金を払うわ。そしてあなたは私に金を払えばいいのよ。それを保証人と呼んでもいいわ。でも、しまっておいて!見ているだけで目が回りそうよ。――ベリー」と、冷たい風を一陣の吹き抜けに、ずんぐりむっくりとした、やつれた男がドアから入ってきたので、彼女は言った。「その紳士は牛を治している間、私たちと一緒にいるわ。仕事を早く!彼が支払いの保証人になってくれたの。だからあなたは暖炉の隅で寝て、彼は部屋で寝るの。こちらは私の弟のベリーです、旦那様」
ベリーは頭を下げてぶつぶつ言った。目はぼんやりとしていた。イリオスには、男は毒を盛られたように思えた。ベリーが再び外に出ると、女は近づいてきて、毅然とした口調で低い声で言った。「酒以外には何も害はない。だが、酒以外にはほとんど何も残っていない。酒は彼の精神のほとんどを蝕み、私たちの財産のほとんども蝕んでいる。だから、もし差し支えなければ、金は彼の目につかないところに隠しておいてくれ。彼は金を探しに来ることはないだろう。だが、もし見つけたら、盗んでしまうだろう。彼は自分が何をしているのかよく分かっていないのよ、分かるだろう?」
「ええ」イリオスは言った。「分かりました。あなたは優しい女性です」彼女は彼のことを、彼が自分のしていることに気づいていないことについて話していた。彼女は彼を許していた。「優しい姉さん」と彼は言った。その言葉は彼にとってあまりにも新しく、口にしたこともなく、考えたこともなかった。彼はそれを、口にしてはならない真実の言葉で口にしたのだと思った。しかし彼女はただ肩をすくめ、眉をひそめて微笑んだ。
「時々、彼の愚かな頭を振り落とすことができた」と彼女は言い、仕事に戻っていった。
安息の地へ来るまで、自分がどれほど疲れていたかに気づかなかった。彼は一日中、灰色の猫と一緒に暖炉の前でうとうとしていた。その間、ギフトは仕事に出入りしながら、何度も彼に食べ物を差し出した。質素で粗末な食べ物だったが、彼はそれをすべて、ゆっくりと、大切に食べていた。夕方になると兄は出かけ、彼女はため息をつきながら言った。「下宿人が来たからって、彼は酒場でまた新しい融資枠を組むわよ。あなたのせいじゃないけど」
「ああ、そうだ」イリオスは言った。「私のせいだった」しかし彼女は許した。灰色の猫は彼の太ももに寄り添い、夢を見ていた。猫の夢が彼の心に浮かんだ。動物たちと語り合った低い野原、薄暗い場所での夢だ。猫がそこに飛び乗ると、ミルクが溢れ、深く柔らかな震えが訪れた。罪はなく、ただ無邪気さだけがあった。言葉は不要だった。彼らはここで彼を見つけることはないだろう。彼は探すためにここにいるのではない。名前を呼ぶ必要もなかった。彼女と、夢を見る猫と、揺らめく炎以外には誰もいなかった。彼は黒い道を通り、死の山を越えてきたが、ここでは牧草地の間を小川がゆっくりと流れていた。
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彼は狂っていた。なぜ彼をここに留まらせたのか、彼女には分からなかったが、彼を恐れることも、不信感を抱くこともできなかった。彼が狂っていたとしても、何が問題なのだろうか?彼は温厚で、かつては賢かったかもしれない、あの出来事が起こる前は。そして、彼はそれほど狂ってはいなかった。ときどき狂い、瞬間的に狂っていた。彼の中では何もかもが完全ではなかった。狂気さえも。彼は彼女に言った名前を思い出せず、村の人々にオタックと呼ぶように言った。おそらく彼女の名前も思い出せなかったのだろう。彼はいつも彼女を女主人と呼んでいた。しかし、もしかしたらそれが彼の礼儀だったのかもしれない。彼女は礼儀として彼をサーと呼んだ。そして、ガリーもオタックも彼にふさわしい名前だとは思えなかったからだ。オタックは、鋭い歯を持ち、声のない小動物だと彼女は聞いていたが、ハイ・マーシュにはそんな生き物はいなかった。
牛の病気を治すためにここに来たという彼の話は、もしかしたら狂気の沙汰の一つなのかもしれないと彼女は思っていた。彼は、動物たちに薬や呪文や軟膏を持ってやって来る治療師のような振る舞いはしなかった。しかし、数日休んだ後、彼は彼女に村の牛飼いは誰なのかと尋ね、ブレンの古い靴を履いたまま、まだ足が痛いまま歩き去っていった。それを見て、彼女は胸が締め付けられるような思いがした。
夕方、彼はいつもより足を引きずって帰ってきた。もちろん、サンは彼をロング・フィールズまで連れて行って、牛のほとんどがそこにいる場所まで連れて行ったのだ。アルダー以外に馬を飼っている人は誰もおらず、馬は彼のカウボーイのためのものだった。彼女は客に熱いお湯の入った洗面器と、足の悪い人に清潔なタオルを渡し、それからお風呂に入りたいかと尋ねた。彼はそう言った。二人はお湯を沸かし、古い浴槽に水を張った。彼が暖炉でお風呂に入っている間に、彼女は自分の部屋に入った。彼女が部屋から出てくると、すべて片付けられ、拭き上げられ、タオルは暖炉の前に掛けられていた。彼女はそんな面倒を見る男を知らなかったし、金持ちの男にそんなことを期待するだろうか?彼の出身地では、使用人はいないのだろうか?しかし、彼は猫と同じくらい面倒なことはしなかった。彼は自分の服、シーツさえも自分で洗い、彼女が気づく前に、ある晴れた日に干しておいた。「あなたはそんなことをしなくていいんです。私のものは私が使いますから」と彼女は言った。
「必要ないよ」彼は彼女が何を言っているのかほとんど分かっていないかのように遠くを見つめながら言った。そして、「君はとても一生懸命働いているよ」と言った。
「誰だってそうでしょう?チーズ作りが好きなんです。面白いんです。それに私は体力も強いんです。ただ歳を取って、バケツや型を持ち上げられなくなるのが怖いだけなんです」彼女は丸くたくましい腕を見せ、握りこぶしを握って微笑んだ。「50歳にしてはなかなかいい腕ですね!」と彼女は言った。自慢するのは馬鹿げているように思えたが、彼女は自分の強い腕、エネルギー、そして技術を誇りに思っていた。
「仕事を早くしろ」と彼は重々しく言った。
彼は彼女の牛の扱いに驚くほど長けていた。彼がそこにいて、彼女が手伝いが必要な時は、ベリーの代わりに牛を扱った。彼女が友人のタウニーに笑いながら話してくれたところによると、彼はブレンの老犬よりも牛の扱いに長けていたという。「彼は牛たちに話しかける。牛たちは彼の言うことをちゃんと聞いてくれるわ。それにあの雌牛は子犬みたいに彼の後をついて回るのよ」牧場で牛たちと何をしていたにせよ、牧場主たちは彼を高く評価するようになっていった。もちろん、彼らはどんな助けの約束にも飛びつくだろう。サンの牛の群れは半分死んだ。アルダーは何頭を失ったのか言わなかった。牛の死骸が至る所にあった。寒さでなければ、湿地帯は腐った肉の臭いを放っていただろう。水は、ここの彼女の井戸と、この地名の由来となった村の井戸から汲んだ水以外は、一時間煮沸しないと飲めなかった。
ある朝、アルダー家のカウボーイの一人が馬に乗り、鞍をつけたラバを引いて家の前庭に現れた。「アルダー様は、オタック様がラバに乗ってもいいとおっしゃっています。イースト・フィールドまでは10~12マイルありますから」と若者は言った。
客が家から出てきた。明るく霧のかかった朝で、沼地はきらめく蒸気に隠れていた。アンダンデンは霧の上に浮かび、北の空に巨大な崩れかけた姿をしていた。
治療師はカウボーイに何も言わず、サンの大きなジェニーからアルダーの白馬に連れられて出てきたラバ、というかヒニーのところへまっすぐ向かった。彼女は白っぽい栗毛で、若く、美しい顔をしていた。彼は彼女のところへ行き、少しの間話をした。大きく繊細な耳に何か話しかけ、髷を撫でた。
「彼はそういうことをするんだ」とカウボーイはギフトに言った。「奴らに話しかけるんだ」彼は面白がりながら、軽蔑した。彼は酒場でベリーと飲み仲間だった。カウボーイにしては、それなりにまともな若者だった。
「彼は牛を治療しているのですか?」と彼女は尋ねた。
「まあ、彼は一度に病気を治すことはできない。でも、よろめきが始まる前に対処すれば、ひどい状態を治せるらしい。それに、まだかかっていない人には、病気を防げるらしい。だから、師匠は彼をあらゆる射撃場に送り、できる限りのことをさせている。多くの人にとって、もう手遅れだ」
調教師は腹帯を確認し、革紐を緩めて鞍にまたがった。上手とは言えなかったが、ヒニーは異議を唱えなかった。彼女は長く白い鼻と美しい瞳を騎手の方へ向けた。騎手は微笑んだ。ギフトは彼が微笑むのを見たことがなかった。
「行こうか?」とカウボーイはギフトに手を振り、小さな牝馬が鼻を鳴らすと、すぐに出発した。調教師も後を追った。ヒニーは滑らかで長い脚で歩き、その白い肌は朝の光に輝いていた。ギフトは、まるで物語から抜け出してきた王子様が馬で去っていくのを見ているようだった。馬に乗った姿が、明るい霧の中を冬の野原のぼんやりとした茶色を横切り、光の中に消えていき、消えていくのを見た。
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牧場での仕事は重労働だった。「重労働をしない人がいるかしら?」エマーは丸くたくましい腕と、硬く赤くなった手を見せながら尋ねた。牧場主のアルダーは、エマーがこの牧草地にとどまり、そこにいる大きな群れの生きた動物たちを一人残らず触ることを期待していた。アルダーは二人のカウボーイを同行させた。彼らはグランドクロスと半分テントを張ったキャンプのようなものを作った。沼地には小さな柴と枯れた葦以外燃えるものはなく、火はお湯を沸かすのがやっとで、人を温めるには全く足りなかった。カウボーイたちは馬で出てきて、乾燥した霜の降りた草の牧草地に散らばって餌を探し回る動物たちを一頭ずつ追いかけるのではなく、群れとしてエマーが彼らのところに来れるように動物たちを集めようとした。牛を長い間群れに留めておくことができず、彼らは牛たちにも、エマーがもっと早く動かないと怒った。彼らが動物に対して忍耐を示さず、まるで物のように扱い、まるで川で丸太をいかだ職人が扱うように、力ずくで動物を扱うのが、彼にとって奇妙だった。
彼女たちも彼に我慢がならず、いつも仕事を早く終わらせろと彼に言い聞かせていた。自分自身に対しても、自分たちの生活に対しても。彼女たちが話すときはいつも、町で、オラビーで、金をもらったら何をするかという話だった。彼はオラビーの娼婦、デイジーとゴールディ、そして彼女たちが「燃える柴」と呼んでいる女についてよく聞いた。彼は若い男たちと一緒に座らなければならなかった。みんな暖炉の火で暖をとる必要があったからだ。しかし彼女たちは彼をそこに望んでいなかったし、彼も彼女たちと一緒にいたくなかった。彼女たちの中には、魔法使いとしての彼に対する漠然とした恐れと嫉妬、そして何よりも軽蔑があると彼は知っていた。彼は年老いていて、異質で、彼女たちの一人ではなかった。彼は恐れと嫉妬を知っていてたじろぎ、そして軽蔑を覚えていた。彼は自分が彼女たちの一人ではなく、彼女たちが自分と話したがらないことを嬉しく思った。彼は彼女たちに悪いことをするのではないかと恐れていた。
凍えるような朝、皆がまだ毛布にくるまって眠っている間に、彼は起き上がった。牛たちが近くにいる場所を知っていたので、そこへ向かった。この病気は、今では彼にとってすっかりお馴染みのものだった。手に焼けつくような痛みを感じ、かなり進行すると吐き気もした。横たわっている雄牛に近づくと、めまいと嘔吐を感じた。彼は近寄らず、死にかけている牛たちを慰めようと言葉をかけて、歩き続けた。
彼らは野性味にあふれ、人間の手によるものは去勢と屠殺だけだったにもかかわらず、彼をその中を歩かせた。彼は彼らが自分を信頼してくれることに喜びを感じ、誇りを感じた。そうすべきではなかったが、そうした。巨大な獣に触れたいと思ったら、立ち止まって、言葉を話さない者たちの言葉でしばらく話しかけるだけでよかった。「ウラ」と彼は名指しで言った。「エル。エルア」彼らは大きく、無関心に立っていた。ある者は彼を長い間見つめ、ある者はのんびりと、ゆったりと、堂々とした足取りで彼に近づき、開いた掌に息を吹き込んだ。彼に近づく者はすべて治癒できた。彼は彼らの硬い毛に覆われた熱い脇腹や首に手を置き、力強い言葉を何度も繰り返し唱えることで、治癒の力をその手に送り込んだ。しばらくすると、獣は体を揺すったり、軽く頭を振ったり、踏みつけたりした。そして彼は手を下ろし、しばらくそこに立ち尽くした。力尽きてぼんやりと。それからまた別の獣が現れた。大きく、好奇心旺盛で、内気ながらも大胆で、泥だらけの体で、まるでチクチクするような、うずくような、手に熱さを感じ、めまいがするような、病的な症状を抱えていた。「エル」と彼は言い、獣のところまで歩み寄り、両手を山の渓流が流れているかのように冷たくなるまで、両手を置いた。
カウボーイたちは、疫病で死んだ雄牛の肉を食べても大丈夫かどうか議論していた。持参した食料は、もともとわずかだったが、そろそろ底をつきつつあった。補給のために20~30マイルも馬で移動する代わりに、彼らは今朝近くで死んだ雄牛の舌を切り取ろうとした。
彼は彼らに、使う水はすべて煮沸するように強制した。そして今、こう言った。「その肉を食べれば、一年もすればめまいがするようになる。やがて彼らと同じように、目が見えなくなり、よろめきながら死んでいくだろう。」
彼らは罵り、冷笑したが、彼を信じた。自分の言ったことが真実かどうか、彼には分からなかった。言った瞬間、真実のように思えたのだ。もしかしたら、彼らに意地悪をしたかったのかもしれない。もしかしたら、彼らを排除したかったのかもしれない。
「戻ってこい」と彼は言った。「ここに残しておけ。一人分、あと三、四日は食糧が足りる。ヒニーが連れて帰ってくるだろう。」
説得など必要なかった。毛布もテントも鉄鍋も、何もかも置いて、馬で出発した。「どうやって全部村まで運べばいいんだ?」と、彼はヒニーに尋ねた。彼女は二頭のポニーを見送りながら、ヒニーの言葉通りの言葉を言った。「ああああ!」と彼女は言った。ポニーがいなくなると寂しくなるだろう。
「ここで仕事を終わらせなきゃ」と彼は彼女に言った。彼女は穏やかに彼を見た。動物は皆忍耐強いが、馬の忍耐は素晴らしく、惜しみなく与えられるものだった。犬は忠実だが、そこには従順さがもっと含まれていた。犬は階層的な存在で、世界を領主と平民に分けていた。馬は皆領主だった。彼らは共謀することに同意していた。彼は、恐れを知らない荷馬車の馬たちの、羽根飾りのついた大きな足の間を歩いていたことを思い出した。頭に感じる馬の息づかいが心地よかった。遠い昔のことだった。彼は可愛らしいヒニーのところへ行き、話しかけ、愛しい人と呼び、寂しくないように慰めた。
東の湿地帯に大群が集まる中を通り抜けるのに、さらに6日かかった。最後の2日間は、山の麓にさまよってきた牛の群れを訪ねて馬で出かけた。牛の多くはまだ感染しておらず、彼は彼らを守ることができた。ヒニーが彼を裸馬で運んでくれたので、道中は楽だった。しかし、彼には食べるものが何も残っていなかった。村に馬で戻った時には、彼はめまいがして膝が震えていた。ヒニーを置き去りにしたアルダーの厩舎から家まで、長い時間がかかった。エメルが彼に挨拶して叱り、食べさせようとしたが、彼はまだ食べられないと説明した。「病気の畑であそこにいたから、気分が悪かったんだ。もう少ししたらまた食べられるようになるよ」と彼は説明した。
「あなたってどうかしてる」と彼女は激怒して言った。それは優しい怒りだった。もっと優しい怒りがあってもいいのに。
「せめてお風呂に入って!」と彼女は言った。
彼は自分の匂いがどんなものか知っていたので、彼女に感謝した。
「アルダーは一体何を支払っているの?」お湯が沸いている間に彼女は問い詰めた。彼女はまだ憤慨しており、いつも以上に率直に言った。
「分からない」と彼は言った。
彼女は立ち止まって彼を見つめた。
「値段は決めなかったんですか?」
「値段をつけたのか?」と彼は思わず口走った。だが、自分が何者でないかを思い出し、謙虚に言った。「いいえ。つけていません」
「一体全体、無邪気なのよ」ギフトは囁くように言った。「皮を剥がされるわよ」彼女は湯気の立つお湯をやかんで浴槽に注ぎ込んだ。「象牙を持っているのよ」と彼女は言った。「象牙でなければならないと言いなさい。10日間も寒さの中で飢えながら、家畜を治療しているのよ!サンは銅しか持っていないけど、アルダーは象牙で支払ってくれるわ。おせっかいで申し訳ありません、旦那様」彼女はバケツ二つを持ってドアから飛び出し、ポンプへと向かった。最近は、小川の水は絶対に使わない。彼女は賢く、そして親切だった。なぜ彼はこんなにも長く、親切でない人たちの中で暮らしていたのだろう?
「見てみないと」とアルダーは翌日言った。「家畜たちが治るかどうかだ。冬を越せれば、ほら、君たちの治療が全部効いて、無事だと分かるだろう。疑っているわけではないが、公平は公平だろう?もし治療が効かず、結局家畜たちが死んでしまったら、私が考えている金額を払うようには要求しないだろう?そんな危険は避けろ!だが、その間ずっと無給で待つようにも頼まない。だから、これから起こることの前払い金を支払ってやる。これで、今のところは我々の関係は万事解決だ、そうだろう?」
銅貨は袋にきちんと収まっていない。イリオスは手を差し出し、牧場主は6枚の銅貨を一枚ずつ入れた。「さて!これで正当だ!」と牧場主は感慨深げに言った。「もしかしたら、明日か明後日のうちに、ロングポンドの牧場で私の1歳馬たちを見られるかもしれないぞ」
「いや」イリオスは言った。「私が去った時、サンの群れは急速に衰退していた。私はそこに必要とされているんだ」
「いや、違いますよ、オタック様。あなたが東の山脈にいらっしゃった時に、南海岸から来た魔術師がやって来たんです。以前ここに来たことのある奴で、サンが雇ったんです。私のために働けば、いい給料をくれるでしょう。獣たちが元気なら、銅貨よりいい給料になるかもしれませんよ!」
イリオスは「はい」も「いいえ」も「ありがとう」も言わず、何も言わずに立ち去った。牧場主は彼を追いかけ、唾を吐きかけた。「避けろ」と彼は言った。
ハイ・マーシュに来て以来、イリオスの心に不安がこみ上げてきた。彼はそれに抗い、抵抗した。牛を癒すために、力ある男がやって来た。またもや力ある男だ。だが、アルダーは言った。魔法使いでも、魔術師でもない。ただの治療師、牛を癒す者だ。彼を恐れる必要はない。彼の力を恐れる必要はない。彼の力は必要ない。確かめるために、彼に会わなければならない。彼がここで私と同じことをすれば、害はない。共に働ける。私がここで彼と同じことをすれば。彼が魔術だけを使い、悪意がなければ。私と同じように。
彼はピュアウェルズの雑然とした通りを歩き、酒場の向かい、道のほぼ中間にあるサンの家へと向かった。30代の屈強なサンは、玄関先で見知らぬ男と話していた。二人はイリオスを見ると不安げな表情を浮かべた。サンが家に入ると、見知らぬ男も後を追った。
イリオスが戸口に出てきた。彼は中には入らず、開いた扉越しに話しかけた。「サン様、川の間にいる牛のことです。今日中に伺います。」なぜこんなことを言ったのか、イリオスは分からなかった。本来はそう言おうとしていたわけではなかったのだ。
「ああ」サンはドアのところまで来て、少し言葉を詰まらせながら言った。「オタク様、ご用はございません。こちらはサンブライト様です。この疫病を治しに来られました。以前、蹄の腐敗病など、獣の病気を治していただいたことがあります。アルダーの牛は一人では手に負えないほどの力量をお持ちですからね…」
サンの背後から魔術師が現れた。アイエスという名だった。彼の力は小さく、汚れ、無知と誤用と嘘によって腐敗していた。しかし、彼の内に秘めた嫉妬心は燃え盛る炎のようだった。「私は10年ほどここで商売をしてきた」と彼はイリオスを上から下まで見ながら言った。「北のどこかから男がやって来て、私の商売を奪えば、それに反発する者も出てくるだろう。魔術師同士の争いは良くない。魔術師、つまり権力者ならなおさらだ。私はそうだ。ここの善良な人々はよく知っているだろう」
イリオスは口論はしたくないと言おうとした。二人分の仕事がある、と。男の仕事を奪うつもりはないと言おうとした。しかし、これらの言葉はすべて、耳を傾けようとしない男の嫉妬という酸に焼き尽くされ、言葉にする前に燃え尽きてしまった。
アイエスは、イリオスがどもるのを見て、ますます横柄な視線を向けた。サンに何か言いかけたが、イリオスが口を開いた。
「君は…」彼は言った。「行かなければならない。戻れ。」彼が「戻れ」と言うと同時に、左手をナイフのように空中に振り下ろした。アイエスは椅子に仰向けに倒れ込み、見つめていた。
彼はただのちっぽけな魔法使い、数少ない残念な呪文を持つ、ずる賢いヒーラーだった。少なくとも、そう見えた。もし彼がズルをしていて、力を隠していたら、ライバルが力を隠していたら?嫉妬深いライバルだ。彼を止めなければならない、縛り、名付け、呼び出さなければならない。イリオスは彼を縛る言葉を唱え始め、震え上がった男は縮こまり、縮み上がり、か細く高い泣き声を上げた。間違っている、間違っている、私が間違っている、私が病んでいる、イリオスは思った。彼は口の中で呪文の言葉を止め、抵抗し、ついにもう一つの言葉を叫んだ。すると、アイエスという男がそこにうずくまり、嘔吐し、震えていた。サンはじっと見つめ、「逃げろ!逃げろ!」と叫ぼうとしていたが、何の害もなかった。しかし、炎は彼の手の中で燃え、彼が手で目を隠そうとしたときに目を焼き、彼が話そうとしたときに舌を焼き尽くした。
「On the High Marsh」(c)2001 アーシュラ・K・ル・グウィン著。初版はハーコート社より。アーシュラ・K・ル・グウィン文学財団の許可を得て抜粋を転載。
イラスト(c)2018 Charles Vess、Saga Press 刊『The Books of Earthsea』より。アーティストの許可を得て使用しています。
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