『バットマン』におけるロバート・パティンソン演じるダークナイトの演出の多くは、その恐るべきイメージの芝居がかった演出にかかっている。「奴らは俺が影に隠れていると思っているが、俺こそが影なのだ」とブルースは独白する。しかし、この映画で最も恐ろしく芝居がかった演出をもたらしているのは、バットマン本人ではなく、彼が乗り込む乗り物なのだ。

マット・リーヴス監督の映画で最初に目に飛び込んできたのはバットマンのバットモービルだったが、最終作では中盤のワンシーンにしか登場しない。ブルースとジム・ゴードンがペンギンの足跡を追う中で、キャットウーマンが復讐のために自らの行動を妨害するという取引を持ちかける。するとゴードンとペンギンの手下たちの間で激しい銃撃戦が勃発し、双方の叫び声と銃声が映画の音響空間を軋ませる。
しかし突然、また轟音が響き渡る。それは瞬く間に耳をつんざくような不自然な叫び声へと変化する。銃声は止み、叫び声も止み、ゴッサムの激しい雨音さえも、この耳をつんざくような叫び声に取って代わられる。轟音は、この恐ろしく異質な音のバックコーラスとして再び鳴り響き、バットモービルのパワーアップしたエンジンが始動するバンシーのような叫び声であることが明かされる。排気口から同じように異質な青い炎が燃え上がり、悪魔のような光景が完成する。

これはまさに信じられない瞬間だ。続く、ブルースが反抗的なペンギンを熱心に追い詰める緊迫した追跡シーンによって、さらに信じられない瞬間が生まれる。しかし、このハイオクタン価のスリルを超えて、これは『バットマン』シリーズ全体を通してブルースがとってきた恐怖と威圧へのアプローチと驚くほど一致する瞬間でもある。バットマンには、どのバージョンであっても、常に芝居がかった雰囲気があった。男を別人に変える恐ろしい容貌は、同様に芝居がかったゴッサム・シティの犯罪の汚さに対する象徴的な恐怖感である。しかし『バットマン』は、ブルースが影になることを受け入れることから、敵と戦うときのむき出しの本能まで、この恐怖を魅力的な方法で扱っている。しかし、ほとんどの場合、それは沈黙によって特徴づけられている。バットマンは幾度となく、その静寂のなかに勇敢に姿を現す。映画の冒頭で列車の乗客を襲撃するピエロメイクの悪党どもを影からこっそりと叩きのめし、薄暗い照明とクラブの音楽のビートに紛れてアイスバーグ・ラウンジを闊歩する。最後の場面でリドラーの手下どもと対峙するバットマンの降下シーンでさえ、劇的な衝撃の後、短く鋭い沈黙の後、まるで雨のように彼らのパレードに降り注ぐ。バットマンの恐ろしい評判は、まさにこの沈黙に潜む影と結び付けられる。
銃撃戦でのバットモービルの登場シーンも、まさにそれと同じだが、ただひたすらに、耳をつんざくような轟音を響かせている。バットマンの恐怖を敵に植え付けようとする意図は確かにあるが、不自然に影に潜むのではなく、この野性的で非人間的な怪物が突如現れ、あり得ないほど恐ろしい叫び声をあげる。その瞬間、バットモービル自体がバットマンの顔となり、続く追跡劇ではブルースが車と一体化する様子が映し出される。エンジンの轟音に負けないほどの怒りを独り言のように叫びながらアクセルを踏み込むと、車はまるでブルースが殴り合いの喧嘩を滑るように、渋滞の中を滑るように進む。ペンギンの車に執拗に張り付いたバットマンとバットモービルは、標的を追い詰めるという一途な意志に突き動かされ、どんなものを投げつけようとも突き進む、止められない存在となる。それは、映画全体を通してパティンソン演じる若きバットマンを特徴づける生々しさ、人間と機械両方からの動物的な怒りの爆発、そしてある場面で劇中で自らをこう呼ぶ彼の怒り、復讐そのものになりたいという願望を表現している。
バットマンの優れたシーンの全てがそうであるように、この作品も一瞬にして畏敬の念を抱かせるほどクールだ。しかし、その芝居がかった華やかさの裏には、それに匹敵するほどの、少しばかり恐ろしい何かが潜んでいる。
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